徒然なるままに書き記した戯言集です(^^;)。
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埼玉では午前中、雪が降った。
今年に入って1回、埼玉では雪が降ったが、雪というよりも霙(みぞれ)交じりだった。ちゃんとした「雪」という形で降ったのは今年に入ってから今日が初めてかもしれない。埼玉にとっての初雪だ。
子供の頃は雪が降ることが嬉しかった。埼玉では冬の間に雪が降るのは例年3~4回
ぐらい。雪は僕にとっては「非日常」の世界なので、雪が降るとテンションが上がった。
しかし埼玉は雪があまり積もらない。また、翌日晴れてしまえばあっという間に溶けてなくなってしまう。埼玉で生まれ育った僕にとって雪は「儚い魔法のようなひと時」だ。
僕は15年ほど前、旅行で冬の札幌に行ったことがある。当たり前のことかもしれないが、札幌では雪は「非日常」ではない。れっきとした「日常」で、雪の中に人々の生活がある。頭で考えるとそれは理解できるが、いざその光景を目の当たりにすると、僕が「雪」に対して持っている認識がいかに浅いものなのか痛感させられた。
札幌駅を出て街中に入ると、雪がたくさん降っていた。しかし街中を歩く人はダレも傘を差していない。当然だ。札幌の雪はサラサラで、まさに「粉雪」だった。サラサラゆえに服にへばり付くことがなく、手でサッと払えば簡単に落ちてしまう。服に付くことがないから傘を差す必要がないのだ。埼玉では雪は水分を含んだ「ぼたん雪」なので、服に付くとビシャビシャに濡れてしまう。だから雪の日には傘を差すのが当然だと思っていた。雪の中で傘を差していない人を見てちょっとショックを受けた(^^;)。
僕が更にショックを受けたのは、札幌では雪が「雪印」の六角形の結晶の形で降ってくることだ(^^;)。札幌の街中を歩いていた時、僕のジャンバーの上にも雪が降りかかってきた。僕のジャンバーは黒だったので、雪が付いたのが目立った。それをよく見ると、なんと1センチ大の「雪印」マークの結晶が複数確認できた(^^;)。
埼玉で降る雪は綿の塊のような形なので、結晶を肉眼で確認したことがない。雪の結晶というものは顕微鏡でないと確認できないものだとずっと思っていた。そのため、1センチ大の雪の結晶を見た時は我が目を疑ったほどだ(^^;)。
雪は別名「六花(りっか)」とも呼ばれる。僕はこれが、雪が六角形の結晶であることが研究の末に発見されてから付いた「ロマンチックな名称」だと思っていた。それが札幌では、六角形の花びらの形のまんまで降ってくるので、見たままの景色を風情を込めて名付けられたものなのだと理解した。
吉幾三の「雪国」では、歌詞の中に様々な雪の名称が盛り込まれている。「雪」と一言言っても地域や気象条件によって様々な表情を見せるものなんだなと思った。
子供の頃は雪を見るとテンションが上がったものだが、齢四十を越えると素直に喜べなくなってくる(^^;)。
僕が好きな詩人、中原中也の詩の中で「生ひ立ちの歌」というのがある。「私の上に降る雪は・・・」のフレーズで知っている人も多いと思う。
詩は、主人公が成長していく過程ごとの雪の感想を述べている。ここでは雪は同じ表情しか見せていない。その雪を見た主人公が、子供の頃は綺麗だと思っていたのが、大人になっていくごとに、変わらぬ雪の美しさと対照的に己の弱さや醜さを実感するというものだ。
前に雪は「様々な表情を見せるもの」と書いた。それが中原中也の詩では「自分の表情(感情)を映し出す鏡」として捉えている。雪というものが日本人にとって「叙情的」なものなのだということが実感できる。
僕が子供の頃は、中原中也の詩のように雪は、「真綿」のように優しく軽く美しいものだった。では今はどうか?
僕は数年前、雪の日に友人を亡くしている。以来雪を見ると、美しいだけではない複雑な感情が沸き起こる。それが「ぼたん雪」のように僕の中に貼りついている。今日の雪を見てそれをちょっと思い出した。
僕の上に降る雪は、「いとしめやかに」というところだろうか。さすがに「熱い額に落ちもくる涙のやう」な時期は過ぎました(^^;)。
今年に入って1回、埼玉では雪が降ったが、雪というよりも霙(みぞれ)交じりだった。ちゃんとした「雪」という形で降ったのは今年に入ってから今日が初めてかもしれない。埼玉にとっての初雪だ。
子供の頃は雪が降ることが嬉しかった。埼玉では冬の間に雪が降るのは例年3~4回
ぐらい。雪は僕にとっては「非日常」の世界なので、雪が降るとテンションが上がった。
しかし埼玉は雪があまり積もらない。また、翌日晴れてしまえばあっという間に溶けてなくなってしまう。埼玉で生まれ育った僕にとって雪は「儚い魔法のようなひと時」だ。
僕は15年ほど前、旅行で冬の札幌に行ったことがある。当たり前のことかもしれないが、札幌では雪は「非日常」ではない。れっきとした「日常」で、雪の中に人々の生活がある。頭で考えるとそれは理解できるが、いざその光景を目の当たりにすると、僕が「雪」に対して持っている認識がいかに浅いものなのか痛感させられた。
札幌駅を出て街中に入ると、雪がたくさん降っていた。しかし街中を歩く人はダレも傘を差していない。当然だ。札幌の雪はサラサラで、まさに「粉雪」だった。サラサラゆえに服にへばり付くことがなく、手でサッと払えば簡単に落ちてしまう。服に付くことがないから傘を差す必要がないのだ。埼玉では雪は水分を含んだ「ぼたん雪」なので、服に付くとビシャビシャに濡れてしまう。だから雪の日には傘を差すのが当然だと思っていた。雪の中で傘を差していない人を見てちょっとショックを受けた(^^;)。
僕が更にショックを受けたのは、札幌では雪が「雪印」の六角形の結晶の形で降ってくることだ(^^;)。札幌の街中を歩いていた時、僕のジャンバーの上にも雪が降りかかってきた。僕のジャンバーは黒だったので、雪が付いたのが目立った。それをよく見ると、なんと1センチ大の「雪印」マークの結晶が複数確認できた(^^;)。
埼玉で降る雪は綿の塊のような形なので、結晶を肉眼で確認したことがない。雪の結晶というものは顕微鏡でないと確認できないものだとずっと思っていた。そのため、1センチ大の雪の結晶を見た時は我が目を疑ったほどだ(^^;)。
雪は別名「六花(りっか)」とも呼ばれる。僕はこれが、雪が六角形の結晶であることが研究の末に発見されてから付いた「ロマンチックな名称」だと思っていた。それが札幌では、六角形の花びらの形のまんまで降ってくるので、見たままの景色を風情を込めて名付けられたものなのだと理解した。
吉幾三の「雪国」では、歌詞の中に様々な雪の名称が盛り込まれている。「雪」と一言言っても地域や気象条件によって様々な表情を見せるものなんだなと思った。
子供の頃は雪を見るとテンションが上がったものだが、齢四十を越えると素直に喜べなくなってくる(^^;)。
僕が好きな詩人、中原中也の詩の中で「生ひ立ちの歌」というのがある。「私の上に降る雪は・・・」のフレーズで知っている人も多いと思う。
詩は、主人公が成長していく過程ごとの雪の感想を述べている。ここでは雪は同じ表情しか見せていない。その雪を見た主人公が、子供の頃は綺麗だと思っていたのが、大人になっていくごとに、変わらぬ雪の美しさと対照的に己の弱さや醜さを実感するというものだ。
前に雪は「様々な表情を見せるもの」と書いた。それが中原中也の詩では「自分の表情(感情)を映し出す鏡」として捉えている。雪というものが日本人にとって「叙情的」なものなのだということが実感できる。
僕が子供の頃は、中原中也の詩のように雪は、「真綿」のように優しく軽く美しいものだった。では今はどうか?
僕は数年前、雪の日に友人を亡くしている。以来雪を見ると、美しいだけではない複雑な感情が沸き起こる。それが「ぼたん雪」のように僕の中に貼りついている。今日の雪を見てそれをちょっと思い出した。
僕の上に降る雪は、「いとしめやかに」というところだろうか。さすがに「熱い額に落ちもくる涙のやう」な時期は過ぎました(^^;)。
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